つれづれな思いーふるさとの山・川を考える(1991年1月の日記から)

 
ある交流会場のことである。3人のパネリストが演壇の上で、この町のこれまでの歴史と、これからのあり方を語っていた。
その中で、彼らは過疎化する町を活性化するため『経済的豊かさが必要だ』そのためには『施設が必要である』と強調していた。
彼らの話を聞きながらハイゼンベルクの言葉を思い出していた。
 
部分と全体、複雑から単純、そして、その繰り返しの現世界。
極から分散、散らばりから集中。家族社会から世界全体への物理的現象。
 
我々の生態も含めて、生き物たちの世界は離合集散を繰り返している。
その中でカオスが生じコスモスが生まれる。
ギブソンが唱えたアフォーダンスン論とは違う道筋で出てきた。
ハイゼンベルクの唱えた素粒子の振る舞いから導かれた思いである。

彼らの言う地域作りに、なぜ、過疎だから地域活性が必要なのか?

 

なぜ、開発行為が必要なのか?
 
彼らの言う『まほろば』の意味が、『おだやか』と言うのであれば、この地に作られてきた『山・川』と、そこから見える『空の広がり』を残してゆくべきではないだろうか。
 
施設を沢山造り、一時的に金回りが良くなっても何の解決にもならない。
 
地球という全体を見て、我々の行為が正しい選択肢なのかを考えなければならない。

この町に限らず、私たちに残された『ふるさとの山と川』は、経済優先の物社会に利用されてゆくだろう。

 

今一度考えなければならない時ではないだろうか。
 
広告
カテゴリー: つれづれな思い パーマリンク

つれづれな思いーふるさとの山・川を考える(1991年1月の日記から) への2件のフィードバック

  1. 洋子 より:

    過疎化が進み子供の数も減り学校も廃校寸前というある地域で
    山村留学というのを実施しているのをテレビで知りました。
    他県の子供を、子育ても終わり夫婦だけになった家庭にホームステイさせるという
    もので子供も田舎のゆったりした生活を楽しみ、受け入れ先の夫婦も
    子供のいる生活を楽しんでいました。
    なかなか良い交流だな、と思いました。

  2. 山旅人 より:

    私もテレビで見ました。
    都会の学校で、受験戦争やいじめにあった子供達を守り育てている姿に感銘を受けました。
    岩手県の山奥では、子育てのため家族全員が移り住んでいる人が居ます。
    全生徒が10人位の学校で伸び伸び育っている様子が伺えました。
    私の知り合いで、早池峰山の麓(タイマグラ)で民宿をしながら子育てをしている方もいます。
    クマや狐が出るところで、やはり伸び伸び育っています。
     
    私たち大人は子供達の将来を経済的側面で判断しがちですが、競争社会の経済的観念を必要以上に押し付けてしまっていると思います。
    競争社会のヒエラルキーの構図は、支配する・支配されるという立場を作り出し、本来の民主的社会の構築からはずれてしまったと思います。
    競争社会の勝ち組という考え方は、現在叫ばれている「共生社会・共存社会」とも矛盾しています。
    その結果、お年寄りを競争社会の邪魔者であるように扱い、高齢者との関わりを避けて合理的な社会システムに任せています。
    自分達も、いずれそうされるのを知ってか知らずか・・・。
    今一度、私たちの便利な社会・合理的な社会を見直すべきだと思います。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中