モハンダイハウスでの事(苦言・諫言)

 昨夜の事である。

日本のカメラマンが子供に写真を撮らせてくれと頼み「写真を撮ったのにアメ玉1個しか与えなかった、10ルピーでも与えたらよかったじゃないか」とモハンダイが話したので、「仕事で写真を撮ったならお金を払うべきだが、乞食のように『パイサー、ミタイ』とすがってくる子供たちは、ただお金をくれと言っているので良くない」と話した。

じつは、心の中でたかが写真一枚で『パイサー、ミタイ』というのは乞食みたいな真似ではないかと思っていた。そう言うと角が立つので、単にお金だけをくれというのは良くないと話を替えて話した。

すると、モハンダイは「私もそう思う。ただでお金をもらうことは良くない。そんなことを覚えると仕事をしなくなる。ただでお金をもらい遊んでいるのは、浅ましい」と言った。

その時である。突然のように、その『浅ましい』という言葉が私に返ってきた。

自分はどうなんだ。年の半分も仕事をしないで会社の世話になり、しかも、ヒマラヤに行くたびに沢山の人達から餞別を頂いてここに来ているのではないか。私とその子供と、どこが違う。同じではないか。まさに、浅ましい姿ではないかと。

私は常々、自分の生き方を通して子供たちに多くのことを伝えたいと言ってきた。社会の枠の中に納まることなく世界中を見よと言ってきた。しかしそのとき、理想は立派でも現実の姿はどうだろうと思ったのである。

私は、昨年から会社での待遇が良くなり、半年も仕事をしないで山に行って良い状況になった。そのことをある人に話したら『売名行為』またある人は『そのお金の半分は俺たちに』と言われてしまった。冗談なのだろうが、ショックだった。

何でそんな言い方をするのだろう。私はヒマラヤに『登りたい』という単純な気持ちである。それに山での時間を優先するために、最小限の時間を働き、生活を切り詰めながら貯えてヒマラヤに来ている。それなのに、何でそんな言い方をするのだろうと考え込んでしまい、自分の生き方に迷っていた。

それが、昨日の『浅ましい』という言葉でその謎が解けたのである。そうなのだ、みんなの世話になりながら今こうして登山を続けられるのに、自分に都合よく考えていたのだ。それはまさに『浅ましい』ことなのだ。自分を納得させる答えを見つけようとするから迷うのである。無理に理屈をつけようとするからおかしいのだと思った。

写真を撮られた子供が『パイサー』と言ってきたことに対し、写真を撮る側のモラルが貧弱であったため、ただ単に『パイサー』と乞食のようにねだる子供を『浅ましい』と決めつけていたのは私自身であった。

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私は、モハンダイが話してくれた人の道の本質をわかっていなかったのである。モハンダイのおかげで、見かけだけの姿を気にして、見かけだけの理屈を考えていた自分に気がついた。昨夜の出来事は、私を諌めて諭してくれた出来事であった。

1997年3月記

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